2025年12月17日

【一度読んだら絶対に忘れない物理の教科書】池末 翔太 読書日記1620

一度読んだら絶対に忘れない物理の教科書 - 池末 翔太
一度読んだら絶対に忘れない物理の教科書 - 池末 翔太どうやらこれはシリーズもののようで、個人的には『一度読んだら絶対に忘れない生物の教科書』(読書日記1615)に続く2冊目。今度は高校時代に私にとって2番目に苦手な科目であった物理である。

冒頭、物理には一つのストーリーがあり、公式を丸暗記しても絶対にダメだとされる。公式を暗記した記憶はないが、それが良かったのか、それすらしなかったのかは微妙である。著者としては、公式が生まれた背景を理解しないとダメというのはその通りなのだろう。そして高校物理は実は古典物理学と言われるもので、大学物理は量子論となっているとする。高校物理は現代物理学を学ぶ前に知っておきたい物理の歴史なのだという。文系学生だった私は量子論には辿り着けなかったということである。

まず取り上げられるのは力学。その目的は、物体がいつどこにいるかを知ること。物理学の目的は、自然現象すべてを何かしらのルールのある振る舞いと考え、それを記述することとする。その単位の一つは加速度で、m/s2で表す。ただ、これが「メートルまいびょうまいびょう」と読むのだという説明には、悲しいことに「そうだったっけ?」と思わざるを得ない。その数式によって表される面積は移動距離に等しいという説明には既視感がある。

力の発生には「作用・反作用の法則」があり、力の釣り合いとは加速度ゼロの状態。仕事とエネルギーの説明はついていけていた分野である。力学的エネルギー=運動エネルギー+位置エネルギーであり、投げたボールが地面に設置せず地球をぐるりと一周する速度を第1宇宙速度と言い、大気圏から飛び出す速度を第2宇宙速度と言う。ケプラーの法則は、宇宙小僧だった自分には馴染みのある法則である。

続いて熱力学。これは熱現象を力学の言葉で語ろうという試みであるとする。ニュートン力学と確率統計論を融合した分野だとする。熱力学の第一法則はエネルギー収支のこと。気体の圧力を粒子の運動として捉えるが、よくそういう発想に至ったものだと思わざるを得ない。物理をなんとなく難しいと思う理由がこのあたりにある。さらに波動に至るとそれは増す。波の現象を細かい粒子の動きとして力学的に捉えるというところがなかなか理解し難い。

波とは媒質の振動が空間を伝播していく現象。波動現象は力学的波動と電磁波(光)とに分けられる。よく知られたドップラー効果もここに分類される。電磁気学もまた粒子の運動として捉えられる。電気的な力と天体同士の引き合う力(万有引力の法則)が同じ式で書けるというのは驚きのようであるが、物理音痴にはピンとこない。マクスウェル方程式、ガウスの法則、オームの法則となんとなく聞き覚えのある法則もその意味は難しい。

最後は原子物理学。古典力学から現代物理学への転換期にあたるもの。前期量子論、光電効果と説明される。光の性質は波か粒子かという議論には聞き覚えがある。そしてアインシュタインが光は波であり粒子であると答えたことも。そして有名な「E=mc2」の公式。質量とエネルギーは同じだということを表している。原子核をバラバラにすると重さが変わるのだとか。質量保存の法則に反すると言われても、原子物理学の世界は理解が難しい。

原子核の崩壊によって放出される「放射線」、確率的に生じる原子核の崩壊と説明は続く。しかし、原子の世界はアインシュタインすら迷走した世界であり、一般人には難しい。「神様はサイコロを振らない」という言葉も有名である。タイトルでは「一度読んだら絶対に忘れない」となっているが、文系脳には難しい。それどころか3回読んでも理解できるだろうかと思ってしまう。しかし、面白い世界であることは間違いない。

長く物理学から離れていた文系人間には難しくもあるが、それでもわかりやすくもある。もう一度学び直してみたいと思う者には、ちょうどいいと思える一冊である・・・





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2025年12月09日

【全体主義の起原 1】ハンナ・アーレント 読書日記1619

全体主義の起原1 新版――反ユダヤ主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大久保和郎
全体主義の起原1 新版――反ユダヤ主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大久保和郎
以前から気になっていた著者の代表作と称される一作。タイトルからして興味深いところである。構成は全3巻。その第1巻である。

最初の前書きで、本書は向こう見ずな楽観主義と向こう見ずな絶望という両方の背景に対抗して書かれているとする。進歩と破滅は一つのメダルの両面。どちらも信仰ではなく迷信に属すると。さらに本書は我々の政治的・精神的世界のあらゆる伝統的要素が溶けて一塊の複合物になるための隠れた仕組みを発見することができるはずという信念に基づいて書かれたとつづく。興味深いイントロである。

全体主義の起原と謳う本書は19世紀のヨーロッパから始まる。その中心となるのが反ユダヤ主義。これは単なる狂信的排外主義や外国人嫌いとは異なるもの。ヨーロッパの国民国家体制が崩壊し、ユダヤ人が富のほか何ものも所有しなかった時に絶頂に達する。人間は真の権力に服従し、あるいはそれに耐えるが、権力なき富を憎むと著者は分析する。国民国家の集合として組織されたヨーロッパが崩壊し、国民国家の没落と反ユダヤ主義運動の台頭が並行して展開される。

ここで反ユダヤ主義は単なるユダヤ人憎悪とは違うと説明される。ユダヤ人憎悪は昔から存在するもので、政治的には重要ではないが、反ユダヤ主義は19世紀の現象だとする。もともとユダヤ人たちはその財力を生かし一国の最高権力と結びつき、宮廷ユダヤ人として高い地位に止まっていた。それが可能だったのは自分たちの国際的関係を国家事業に持ち込んだため。それが諸国の政府がユダヤ人の保証がなくても国債を発行できるようになると事情が変わる。

さらに貴族が社会における支配階級としての地位を失い、国民国家が成立すると貴族層への打撃となり、貴族層が反ユダヤ的になる。また、国民国家の誕生は嫌悪されてきたユダヤ人たちに全ての住民層と同じ権利を付与するユダヤ人解放令へとつながる。しかし、ユダヤ人側は国民に組み込まれ同化されることを終始一貫して拒む。フランスではユダヤ人はフランスに住みながら国民的連帯に属さないすべての人間の象徴になる。

ユダヤ人は政治に関わらずに1000年以上過ごしてきており、そのため政治的反ユダヤ主義の危機には盲目であった。国民の中で閉鎖された集団を形成し、それが同化と称して社会の中に浸透しようとすると社会の偏見がそれに応じて増大する。社会は政治的・職業的な同権の保証をせざるを得なくなるが、社会的同権だけは拒否する。唯一、ユダヤ民族の例外者にはサロンの扉を開く。メンデルスゾーンなどの名前がこのあたりで出てくる。

ユダヤ人も一枚岩ではなく、宮廷ユダヤ人はユダヤ民族の中でも孤立し、民族内にカーストとして機能する。同化ユダヤ人の中からベンジャミン・ディズレイリが登場する。その考え方は同化ユダヤ人の平均的なものの考え方を代弁する。フォーブル・サンジェルマンの社交界は、同性愛に対する偏見から自由になるが、これはユダヤ人たちに対する偏見にも当てはめられる。同性愛を許容する背徳は犯罪そのものを賛美することの前段階になる。ユダヤ的が一種の背徳となる。

そしてドレフュス事件が起きる。事件の詳細には触れないが、ここではその意味について語られる。フランス第三共和制まではユダヤ人は集団を成していたが、軍の高級将校となったユダヤ人がイエズス会と対立する。宣戦布告したのはイエズス会から。反ユダヤ主義という政治思想がここに成立する。反ユダヤ主義を帝国主義政策と結びつけ、ユダヤ人はイギリスの政策の手先とする排英熱と融合する。ターゲットになったドレフュスは参謀本部に入った最初のユダヤ人。しかし、事件の主役はドレフュスではなくクレマンソーだったとする。

事件はドレフュス有罪となるが、恩赦という形で決着する。その背景には目前に迫ったパリ万博に対する影響への恐怖がある。各国のボイコットを恐れた教皇のインタビューで反ユダヤ主義が沈静化、大いなる和解に向かう。事件はユダヤ人問題と政治的カトリシズムを歴史の舞台から退場させ、シオニズム運動が誕生する。そして本書はここで幕を閉じ、第2巻へと続く。タイトルの全体主義についてはここではほとんど触れられない。反ユダヤ思想が中心となっている。

なぜ反ユダヤ思想から説き始められたのかはこの巻ではわからない。ただ、これまで知らなかった19世紀から20世紀にかけてのヨーロッパのユダヤ人をめぐる動きは興味深い。そして改めてユダヤ人のヨーロッパにおける存在感を意識せざるを得ない。よく見ればタイトルも「起源」ではなく「起原」となっている。「起原」の場合、主に哲学や宗教の文脈で使われ、存在や現象の根源的な始まりを指すことが多いとされる。読んでみればなるほどである。さてこの反ユダヤ主義の流れがどう全体主義の起原になっていくのか。第2巻を楽しみにしたいと思う一冊である・・・





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2025年12月04日

【書いてはいけない】森永卓郎 読書日記1618

書いてはいけない - 森永 卓郎
書いてはいけない - 森永 卓郎『ザイム真理教 それは信者8000万人の巨大カルト』(読書日記1507)を読んでなかなか面白いと思っていた著者のまた興味深そうなタイトルの本を目にしたので、つい手にした一冊。本書で行うのは、現状を打破するための告発であり、それまでのメディアでの仕事を通じて知った「触れてはいけないタブー」にメスを入れんとする内容である。出版を企画するもツテのあった出版社からは本書の出版を断られ、社長1人でやっている小さな出版社からの出版になったと説明される。

まず始めはジャニーズ事務所。一連の記者会見についてはなんとなく耳にしている。それによってジャニーズ事務所は変わったが、一番変わっていないのは日本の大手メディアだという。本書で取り上げるタブーに共通して以下の構造があると言う。
 1. 絶対権力者が人権や財産に関して深刻な侵害を行う
 2. その事実をメディアが報道せず、被害が拡大、長期化していく
 3. そうした事態について、警察も検察も見て見ぬふりをする
 4. 残酷な事態が社会に構造的に組み込まれていく
著者はそうした現状を本書で打破すると語る。

実はジャニー喜多川による性加害については、すでに2003年7月に東京高裁で確定判決が出ているという。キャンペーン記事を掲載した雑誌をジャニー喜多川側が訴えたのであるが、認められなかったもの。本来は刑事事件になるはずであったが、そうならなかったのはマスコミが動かなかったから(警察も動かなかった)のだとか。著者は、それはマスコミがジャニーズ事務所の圧力に屈したからだとする。

一方、今回の事件を受け、東京新聞は反省を述べているが、その中で性加害については「しょせん芸能界のスキャンダル」と軽く見ていたとする。個人的にはその見方も正しいのではないかと思うが、真相はどうなのだろう。ただ、被害が900人以上という数字は耳に入ってこなかったものであり、著者の見方もある意味真実味があるかもしれないと思う。近藤真彦にこっそりサインをもらった後のジャニーズ事務所からの「圧力」については興味深い。

続くザイム真理教については、『ザイム真理教 それは信者8000万人の巨大カルト』(読書日記1507)の踏襲的なところがあり、目新しさはあまりない。しかし、財務官僚がいたるところで「ご説明」を行なっているのは興味を惹かれるところ。税務調査という切り札を持ち、東京新聞が執拗な財務調査を受けたという話は無視できないと思う。財務省の増税路線を改める方法は、財務省から人事権を取り上げて官邸が個別に評価するとするが、増税した官僚をマイナス評価するという内容は疑問に思うところである。

日航123便の墜落については、何を今さらという気がしたが、書いてある内容は驚きの真相。事実だとすれば過去最大級のスキャンダルと言える。墜落地点の特定に時間がかかったのは記憶に残っているが、実は文化放送の記者ほか現地の村役場とかから午後8時くらいには大まかな地点が特定できていたというし、ニュースステーションでは事故の5年後に米軍のC-130輸送機が捜索に当たり、米軍のヘリが現地でいち早く救援活動に入れたのに自衛隊の要請で引き上げたとか。これだけでも衝撃度は大きい。

しかし、さらに著者が主張する真相はその上をいく衝撃度。圧力隔壁の損傷などは嘘であり、本当は自衛隊の非炸薬弾か無人機が尾翼に激突したというもの。その事実を隠すために横田基地への着陸を認めなかったとか、2機のファントムが追尾していて・・・とする。さすがに眉唾陰謀論の薫りが漂ってくるが、真相はボイスレコーダーを公開すればわかるとする。実はボイスレコーダーは公開されていないと初めて知ったが、それは著者ならずとも疑問に思うところである。ここのところは公開して欲しいものであると思う。

最後の日本経済の失墜について、小泉構造改革内閣がその原因を作った過程が説明される。小泉総理の誕生に著者は一役買ってしまったと後悔するが、それほどのことであるようにも思えないのは素人だからだろうか。なんとなく自分を買い被り過ぎているようにも思う。内容的にはなるほどと思うところと、素直には信じられないところとがあるが、日航機事故についての関連本(『日航123便墜落事件 四十年の真実』)については読んでみたいと思わされる。

内容的には興味深いとこも多いが、一定の距離を保ちつつ受け止めてみたいと思わされる一冊である・・・





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2025年11月17日

【人はなぜ自分を殺すのか】クリスティアン・リュック 読書日記1617

人はなぜ自分を殺すのか(新潮新書) - クリスティアン・リュック, 久山葉子
人はなぜ自分を殺すのか(新潮新書) - クリスティアン・リュック, 久山葉子
著者はスウェーデンの精神科医。スウェーデンの自殺研究の第一人者だという。そんな著者による本書はタイトルからして興味深い。冒頭、著者自身、伯母が自殺した経験があると語る。「なぜ」という疑問は、遺族の間で永遠に癒やされない傷として残るとする。遺族には推測することしか許されない。それは罪悪感から生まれる推測。永遠にいなくなってしまった人ほど存在感の強い人はいないと語る。実体験だけに説得力がある。

ある医師が、意識がなく治る見込みのない患者には栄養剤ではなく食塩水を点滴していると語って問題になる。それは是か否かという疑問が呈される。スイスには自殺幇助団体があり、オランダやベルギーでは安楽死が合法化されている。我が国の感覚からすると遠いところにある。スイスの自殺幇助は、医師から致死薬を受け取り、使用方法を教わり、自分で摂取するという。それを批判したくなる人は、ならば電車に飛び込むのは良いのかと考えてみる必要がある。

自殺という「選択」を尊重することは可能かと著者は問う。18歳の息子を自殺で亡くした父親が、できるのは息子の選択を尊重することと語る話はなかなか深いものがある。自分はそういう立場になりたくない。なぜ自殺は禁止されているのか。自分の人生なんだから死に方も自分で決めていいはずという自己決定権の議論がある。考えてみれば、自殺は世界中で禁止されているのに、自殺はあらゆる文明で起きているという指摘は自殺が普遍的なものであることを示している。

古代ローマが共和制に移行することになったのは、ルクレティアという女性の自殺がきっかけ。その頃、自殺は禁止されていたが罪ではなかったという。それが罪になったのはキリスト教が普及してから。そしてさまざまな自殺の形が説明される。日本の切腹も取り上げられていて興味深い。自殺するのは人間だけというのも考えてみれば当然なのか。高度な脳のなせる技である。そもそも自殺と安楽死は別物という議論もある。

人には生きる権利があるのと同様、死ぬ権利もあるとする。それも重要な基本的人権であるというのはどうだろうか。ある自殺志願者が、自殺幇助を拒否する医師に「どの人生に生きる価値があるかという自分の価値観を押し付けている」と言った言葉は重いと思う。その医師はその言葉を聞いて考えを改めたそうである。日本では自殺と聞いただけで反対の大合唱になるだろうから、こうした議論が堂々となされる様子に感心する。

自殺予防について、「設計による予防」ということが紹介される。自殺の名所などで、自殺しにくいように防止策を施すことらしい。それに対し、どうせ他の方法を考えるだろうから無駄という意見がある。だが、実際に自殺を減少させる効果があるとする。されどこれは検証が難しいのではないかと思う。その場所で減ったとしても、他の場所で自殺した人のトレースはできないだろうから、本当に効果があるのかは疑問だと個人的には思う。

面白いのは、寒さと日光不足で枯れたトマトを「苗が弱かったせいだ」と考えるのは間違っているという意見。苗を人間と捉えれば、言わんとすることはわかる。なんとなく自分もそう考えていたから、はたと気付かされる。生きる意味のある人生とはというところでは一緒に考えさせられる。人生の意味とは命の価値のことで、誰かの人生をよくするための善行を含むことだとする。自分にとって価値ある方向性とは。自分の葬式で友人たちになんと言われたいか、それがヒントになるということには考えさせられる。

自殺について、我が国の国民性は閉鎖的であるように思う。こういう議論は、本来もっと積極的になされてもいいもの。「ダメなものはダメ」ではなんの進歩もない。ただ、我が国でこういう議論ができるようになるのはまだまだ先のように思う。自殺についてはともかくとして、安楽死については早く認められる国になってほしいと思う。まずは考えるという意味で、一読の価値ある一冊である・・・





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2025年11月09日

【菜食主義者】ハンガン 読書日記1616

菜食主義者 新しい韓国の文学シリーズ - ハン・ガン, きむ ふな
菜食主義者 新しい韓国の文学シリーズ - ハン・ガン, きむ ふな
数多く本を読んでいるつもりだが、意外に韓国人作家によるものは読んでいない。特に意図的に回避しているわけではないが、目につくのが少ないということも大きいと思う。そんな中で、手にした一冊。本書は3部に別れているが、その中心になるのが、タイトルでもある菜食主義のヨンへ。最初の「菜食主義者」はそのヨンへと夫のチョンとの物語。

ヨンへは元々少し変わったところのある女で、なぜかブラジャーを嫌がってつけないというところがあった。それでもチョンは美人でも不美人でもない妻にかえって心地よさを感じていたが、ある日を境にその生活が一転する。明け方、目が覚めたチョンがキッチンに行くとヨンへが冷蔵庫に向かって突っ立っている。なぜか背筋がゾクッとするチョン。普通の夫なら皆そうだろう。「夢を見た」とつぶやくヨンへ。そのまま寝るも、夫は目覚めてまた驚く。

朝日で目覚めた夫は、自分を起こさなかった妻に怒りを感じて布団から出る。しかし、ヨンへは冷蔵庫の前で肉類やウナギなどを片っ端から捨てている。さらに怒りを増す夫だが、出勤時間を過ぎており、慌てて家を出ていく。それにしても起こせだのアイロンをかけたワイシャツがないだのと一昔前の関白亭主のような夫に懐かしさを感じる。そしてその日、気になって早く帰宅した夫は完全菜食の食卓に向かうことになる。

ヨンへが変わったのは食事だけではない。夜もほとんど寝なくなり、明け方微睡む程度。夫の不満はセックスに応じなくなったこと。夫から肉の臭いがするというのがその理由。夫の我慢は、社長に招かれた夫婦同伴の食事会で限界に達する。夫が急かさなければ支度もせず、大事な食事会なのに周囲と打ち解けた会話をするでもない。さらに菜食を貫き通すヨンへは周囲の奇異の目もどこ吹く風。メンツを潰された夫は妻の家族に事情を打ち明ける・・・

続く「蒙古斑」は、ヨンへの義兄が主人公。義兄はビデオ作品を手がける芸術家。ヨンへの姉と結婚し、子供が1人いる。ある時、風呂上がりの子供の尻の蒙古斑についての話題になった時、ヨンへは20歳まで蒙古斑が残っていたと知る。その時、義兄の中で何かのスイッチが入る。ヨンへの蒙古斑を見てみたいという気持ちが高まり、抑えられなくなる。忙しい妻に代わり、離婚したヨンへに連絡を取る口実ができた義兄はヨンへに連絡する。

ヨンへの部屋を訪ねた義兄は、鍵のかかっていないヨンへの部屋に入る。そこで浴室から出てきた全裸のヨンへと鉢合わせる。義兄の前でも全裸で動じないヨンへ。義兄はヨンへに思い切って自分のモデルにならないかと持ちかける。全裸のモデルと聞いてもヨンへは躊躇せず同意する。全裸のヨンへの身体中に花を描いてビデオに収めるという構想を抱いた義兄は、妻に内緒で準備に取り掛かる・・・

最後の「木の花火」の主人公はヨンへの姉。ヨンへはついに精神病院に入院している。郊外にあるその病院に1人見舞いに行くのは姉だけ。ある日、病院からヨンへがいなくなったと連絡が入る。その後、ヨンへは山の中で1人立ち尽くしているところを発見されたという。姉がヨンへを病院に訪ねた日、ヨンへは廊下で逆立ちをしている。聞けば木はみんな両手で地面を支えているのだと言う。タイトルにある通り、ここでは「木」がキーワードになっている。

まるで自分が木になったかのようなヨンへ。菜食主義どころか一切の食事を拒否して水だけを飲んでいる。点滴による栄養摂取も拒否するヨンへ。木のように水だけを摂取して光合成をして生きるつもりなのだろうか。その耳に姉の言葉はもはや届かない。誰も理解できない世界に浸るヨンへ。その姿はもはや菜食主義者のものではない。結局、何がヨンへをその世界に誘ったのかはわからない。

小説はストーリーで読ませるのと、何かを感じさせるものとがあるように思うが、この小説はストーリーで読ませるものではない。かと言って何かを感じるかと言えばそうでもない。小説の評価などできる専門家ではないから無理に評価をしようとは思わないが、この作家の他の小説を読んでみたいかと言われれば、個人的にはもういいかなと思う。久しぶりの韓国人作家の手による小説と少し期待したが、自分にはイマイチだった一冊である・・・



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2025年11月06日

【一度読んだら絶対に忘れない生物の教科書】山川 喜輝 読書日記1615

一度読んだら絶対に忘れない生物の教科書 - 山川 喜輝
一度読んだら絶対に忘れない生物の教科書 - 山川 喜輝
高校時代、もはや文系人間と自覚していた私にとって理系科目の中でも一番取っ付きやすかったのが生物であった。そんな生物を主役を人に統一した一つのストーリーで説明したのが本書。どうして生物学を学ぶのか。それは誰もが生物とは無関係ではなく、生物を学ぶことは自分の身の回りに起こっていることや人類が抱える問題をより深く理解することにつながるとする。

あらゆる生物に共通する特徴は以下の5つ。
 1. 細胞からできている
 2. 遺伝情報としてDNAを持つ
 3. 自分と同じ種類の個体をつくる
 4. エネルギーを利用する
 5. 進化する

まずは生物の基本。細胞内に核を持つか持たないかで真核細胞と原核細胞とに分かれる。生命活動の基本はエネルギー。その大元は太陽エネルギー。細胞には代謝で生じたエネルギーを別の代謝で利用できるように蓄える必要があり、それがアデノシン三リン酸(ATP)。生物は呼吸により、植物は光合成によりATPを作っている。その代謝を進めるのは酵素。昔授業で習った微かな記憶が蘇る。そしてDNAの説明があり、どのように複製されるのかが解説される。遺伝子はタンパク質の設計図であり、すべてのDNAの塩基配列がゲノムである。

生理学になると扱われるのは人間の体。神経系による情報の伝達と調節、内分泌系による情報の伝達と調節がそれぞれどのようになされているのかが解説される。さらに血糖濃度はどのようにして調節されているのか。糖尿病発症のメカニズム、体温はどのように一定に保たれているのか、そしてなぜ季節の変わり目に体調を崩すのか。なるほど、つくづく人体の不思議を実感させられる。

免疫学は映画『はたらく細胞』を思い起こさせられる。血液凝固の仕組み、免疫の働き、それに関わる細胞。好中球、マクロファージ、NK細胞、キラーT細胞などはみな映画で出てきたなと思う。炎症、発熱の仕組み、自然免疫と獲得免疫。アレルギーとは病原体でない無害な異物に対して免疫が過敏になり体に不利益な影響を与える状態。これによって花粉症の仕組みもわかる。予防接種とワクチンの関係。240万人の赤ちゃんの命を救ったオーストラリア人男性の話には考えさせられるものがある。

最後の生態学は、主に植生やバイオーム(生物群体)、生態系のバランスの話。このあたりはいろいろなところで見聞きしているので馴染み深い。生命の不思議は今さらであるが、やはり個人的には生理学や免疫学といったところの印象が深い。よくぞここまで調べたものだと思わざるを得ない。そしてそんな調べたことを今は素人でも知識として共有できる世の中であることを改めて喜ばしく思う。

偏見なく、興味を持って読了できた一冊である・・・





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2025年10月31日

【黛家の兄弟】砂原浩太朗 読書日記1614

黛家の兄弟 (講談社文庫) - 砂原浩太朗
黛家の兄弟 (講談社文庫) - 砂原浩太朗

著者はこれまでも『高瀬庄左衛門御留書』(読書日記1508)『霜月記』(読書日記1593)といった時代劇を読んでいる時代劇作家。藤沢周平亡き後、こうした時代劇が読めるのを喜ばしく思う。

物語は前2作でも舞台となっていた架空の神山藩。その神山城下の鹿ノ子堤の桜並木から物語は始まる。主人公の黛新三郎が道場仲間の由利圭蔵とともに花見にやってくる。黛家は代々筆頭家老の家柄で三千石の大身。圭蔵は普請組二十石の下士であり、大きく身分は隔たっているが、道場仲間というところからの仲なのであろう。新三郎には、長男の栄之丞、次男の壮十郎という2人の兄がいる。その花見の場で、3人は大目付の黒沢家のりくと出会う。三兄弟とりくとは幼馴染でもある。

また、その場で次席家老の漆原内記とその息子とも出会う。息子伊之助は名門の長子ながら「雷丸」というはぐれ者集団を率いている。これが後の災いとなる。やがて新三郎に縁談が持ち込まれる。相手は大目付の娘りく。この時代、三男坊はどこかに婿入りしないと日の目を見ない。後の大目付の地位が約束されているわけであり、願ってもないこと。しかし、新三郎は次男の壮十郎を差し置く形になるのが気になる。とは言え、断るものでもなく受けることになるが、良友由利圭蔵を召し抱えることにする。これによって圭蔵も身を立てられることになる。主従の関係になるのもこの時代仕方ない。

婿入りして大目付としての見習いを始めた新三郎。しかし、次兄を差し置いての婿入りに多少引っ掛かりがある。次兄も家を出てしまう。大目付は時として厳しい判断を迫られる。横領した武士にお家断絶を申し付ける舅の仕事ぶりを見てその思いを強くする新三郎。そしてある時、城下で暴れる雷丸を捕えることになる。部下を率いて夜の街を見回る新三郎。雷丸のによる騒動を聞きつけ現場に駆けつけた新三郎は、そこで雷丸の頭領漆原伊之助と対峙する。するとそこへ駆けつけた次兄壮十郎がこれを斬ってしまう・・・

藩内の有力者である次席家老の漆原内記の嫡男を斬ってしまった荘十郎。状況からしてそれは正当行為であるが、そこは封建時代の有力者には当てはまらない。長男と新三郎は後ろ盾がある。しかし、次兄にはそれがない。復讐に燃える漆原内記は、娘が藩主の妾という立場を利用し、なんと大目付の新三郎に裁きを行わせるように仕向けていく。喧嘩両成敗の世の中。次兄の壮十郎も覚悟を決めたのか身を守る答弁をしない。そしてとうとう、新三郎は最悪の評定を下さざるを得なくなる・・・

「黛家の三兄弟」というタイトルが全てを表している。同じ家の両親の下に生まれても、この時代は公平ではない。性格も異なる。そんな三兄弟が次席家老との対立の中で過酷な運命に巻き込まれていく。個人の思いも大事だが、この時代はお家大事。新三郎も大目付黒沢織部正の家と立場を守らねばならない。美人の娘りくと結婚したのはいいが、なぜかりくから同衾を避けられてしまう。それがなぜだか最後まで明らかにされなかったのは少々歯痒さが残ってしまったが、そんなサイドストーリーも加えられる。

次席家老漆原内記と表面上の対立は避けつつ、それでも来たるべき時に向かう黛家の兄弟。派手な剣劇ではなく、人間ドラマで見せる物語。ストーリーもひねりが効いている。この人の書く時代劇はなかなか自分のテイストに合っている。また自作、と思わせてくれる一冊である・・・





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2025年10月18日

【戦争の思想史】中山 元 読書日記1613

戦争の思想史: 哲学者は戦うことをどう考えてきたのか - 中山元
戦争の思想史: 哲学者は戦うことをどう考えてきたのか - 中山元
人間の歴史もいろいろと幅広い。これまでも帳簿(『帳簿の世界史』(読書日記618))や数学(『数学の世界史』(読書日記1610))があったが、これは「思想」の歴史である。

戦争の定義として有名なのはクラウゼヴィッツ。「戦争とは、政治におけるとは異なる手段を用いて政治的交渉を遂行する行為」とする。これは狭義の定義とされ、広義の定義としては文化人類学の定義としての「複数の政治的な統合を持つ集団の間の武力的な衝突」とするものである。戦争とは国家の形成に抗する装置であるが、同時に国家と独立して存在し、国家が使用することもできる装置である。そんな戦争について、人類の歴史において戦争が果たしてきた役割と戦争についてどのような思想が構築されてきたかが説明されていく。

古代ギリシャでは、参政権は自費で武装することのできる平民だけに与えられていたという。国家といっても市民の集まりという意味合いが強かったのだろう。これがローマになると「正義の戦争」という概念が登場する。開戦法規の責務と交戦法規の責務として正式に定式化する。さらに時代が下るとアウグスティヌスによって聖戦という理論が登場する。神の国という考えがあり、戦争と平和についての考察がなされる。

中世に入ると宗教色が強くなる。聖職売買や叙任権闘争などが生じ、キリスト教世界の浄化と神の期待への応答として十字軍が提唱される。しかし、これはイエスの教えに反するもの。近世に入ると大砲が登場し、戦争の様相も変わる。しかし、兵器の技術的な変化によるよりもフランス革命以後の愛国的な兵の登場によって生まれる軍隊の真の革新的な変動が生じる。そうしてマキャベリが登場する。

マキャベリは、人間はこの世においては戦争状態に生きているとし、国家を形成して身を守るという発想。イタリアの民の勇武を持って異邦の輩から国を守るには軍隊の整備が必要というのがマキャベリの「君主論」の結論。アダム・スミスと言えば「国富論」であるが、経済の人というイメージに反し、戦争論も唱えている。戦争そのものは国家の重要な役割とし、国家の役割は自由貿易を遂行するための枠組みの維持であり、そのためには戦争の遂行は国家の重要な課題であるとする。

アダム・スミスはさらに戦争が許される場合を規定する。それは、
 1. 外国からの侵略
 2. 契約が守られない場合
 3. 他国の主権者からの犯罪行為
というもの。現代の感覚からすると違和感があるものもあるが、それもやむをえまい。

近世に入ると、思想家も増えてくる。グロティウス、ホッブス、ルソー、カントらの戦争論が紹介される。近代に入るとフィヒテ、ヘーゲルの戦争論が紹介される。ベーゲルなどは大哲学者として戦争論というイメージはないが、「戦争という営みは国家の生存にとって必要不可欠であり、愛国の発露において国民の精神にとって必要不可欠」と論じている。時代はフランス革命を経てナポレオン戦争へつづき、クラウゼヴィッツが登場する。

マルクス・エンゲルスも戦争論を唱え、第一次世界大戦を経て現代の戦争論になると批判も増えてくる。それは戦争が悲惨さを増してくるのに比例しているのであろう。マッキンダーのハートランド理論、スパイクマンのリムランド理論が登場し、ドゥーエは空からの攻撃は国民の全体を巻き込み総動員体制になるという制空論を唱える。さらにハウスボファーの生存圏の思想、ファシズム批判があり、ハンナ・アレントはヒトラーの人種主義を批判する。

戦争論の紹介の背景として実際の戦争の歴史が描かれる。ところによっては「思想の歴史」という意識が薄れるところもある。意外な人物が戦争について語っていたりするところは興味深い。戦争論という切り口も面白い。こういう歴史もいいと思わせてくれる一冊である・・・





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2025年10月15日

【夜更けより静かな場所】岩井 圭也 読書日記1612

夜更けより静かな場所 (幻冬舎単行本) - 岩井圭也
夜更けより静かな場所 (幻冬舎単行本) - 岩井圭也
著者の著作はこれが初めてである。全体として6つの章に分かれているが、登場人物はみな同じ。ただし、各章それぞれ主人公が異なる。メインの主人公は、女子大生の遠藤吉乃。親元を離れて一人暮らしをしている。母親との話のついでに近くに住んでいる伯父を訪ねてみることにする。それまでほとんど交流がなかったが、近くで古書店を経営していることもあり、暇もあっての訪問である。そんな経緯で、吉乃は伯父の経営する古書店「深海」を訪れる。これが運命的なものになるとは知らずに・・・

伯父と姪と言ってもあまり会ったこともなく、初めは伯父の茂もそれとわからない。会話の糸口としてお勧めの本を聞くと、伯父はロシアの作家レプニコワの書いた『真昼の子』という分厚い本を勧めてくれる。しっかりお金も取られて深海を後にするが、これが吉乃の転期となる。暇にあませて『真昼の子』を読み始めるが、面白くてやめられなくなる。一気に読み終えた吉乃は再び伯父を訪ねる。そしてまた勧められた本を購入する。こうして吉乃は深海に通い始める。

読んだ本が面白ければ誰かとそれを共有したくなる。吉乃は大学では英文学を専攻しているが、ゼミの仲間はロシアの作家レプニコワを知らない。唯一、反応したのがゼミの指導教官の浅木。浅木は妻子がいるものの、吉乃とは不倫関係にある。しかし、吉乃のモヤモヤは解消されない。伯父にそれを話したところ、読書会を提案される。同じ本を読んだ仲間が集まってその本について語り合う。興味を持った吉乃は二つ返事で手を挙げる。

そして開かれた深海での読書会。メンバーは伯父が常連客に声をかけて集めたが、なぜか偶然聞きつけた同じゼミ仲間の真島も参加する。集まったのは、吉乃と真島直哉、グラフィックデザイナーの中澤卓生、図書館司書の安井京子、深海のアルバイト国分藍、そして伯父の遠藤茂。深夜0時からという開始時刻にも関わらず、読書会は熱く盛り上がり、吉乃は満足する。そしてまたやろうということになる。テーマの本はそれぞれ順番に指定していくことになる。それと同時に浅木は実は『真昼の子』を読んでいないとわかってしまう。

物語は各章に分かれている。次の「いちばんやさしいけもの」は真島直哉が主人公になる。元々野球をやっていたが、ボールを投げられなくなって辞めてしまう。不本意な結果に真島には葛藤もある。野球部の仲間に会うのも気が引ける。吉乃のことが気になっていて、読書会に参加することにしたのもそんな経緯。2回目の読書会は真島が当番になるが、国分などの手助けもあって「いちばんやさしいけもの」という絵本を選ぶ。読書会に参加した真島はそれで野球に対する気持ちの整理がつく。

次の「隠花」は図書館司書の安井が主人公。元々本が好きで、就活の際、正規雇用で地元の商社に入るか、非正規雇用で公立図書館の司書になるかという選択肢があり、安井は後者を選んでいる。しかし、非正規ゆえに給料も安く、一人暮らしの生活にゆとりはない。結婚歴もあるが、今は独り身。そして就活の吉乃から話を聞きたいと言われて自宅に呼ぶ。安井が選んだ読書会の課題図書は「隠花」という詩集。吉乃と仲良くなった安井は、離婚時にもらった車を吉乃に譲る。

「雪、解けず」の主人公はグラフィックデザイナーの中澤卓生。ある日、SNSに実の父親から会いたいというメッセージがくる。幼い頃、自分と母を捨てて失踪した父。会うかどうしようか悩む中澤。深海は仕事で必要なイメージ写真を探しによく訪れている。選んだ課題図書は、江戸時代の庶民を描いた小説。小説のストーリーと中澤の現在がシンクロする。バレンタインに吉乃から余ったからと言われてチョコをもらう。中澤はお礼に深海の本をプレゼントする。そして中澤は父と会う約束をする・・・

「トランスルーセント」は深海でアルバイトをする国分藍が主人公。国分は幼少期からヴァイオリンをやっており、音楽大学に進学してヴァイオリニストを目指していたが、挫折してヴァイオリンを手放している。その時に大量の楽譜と音楽雑誌を深海に売りに来たのが、深海との関わりにきっかけ。深海にはある著名なヴァイオリニストの自筆の楽譜があり、遠藤茂はそれを弾いて欲しいと伝える。その曲「トランスルーセント」が読書会の課題となる。3年もの間ヴァイオリンに触れていなかった国分は練習を始める・・・

その時、国分は茂から重大な事実を告げられる。そして章題の「夜更けより静かな場所」は最後の課題図書となる。この本に出てくる本は、実在のものもあれば架空のものもある。架空の本も読んでみたいという気になる。こういう読書会があったら、ちょっと参加してみたい気もする。各章で主人公が入れ替わる形の物語は珍しくはないが、全体の主人公の吉乃を中心とした形式は面白いと思う。根底に読書愛が流れているように思う。

タイトルとなった「夜更けより静かな場所」にも意味があり、最後の章は一際感慨深いものになっている。ふとしたことから深海を訪れ、伯父に一冊の本を紹介されて吉乃の人生は大きく動いていく。人生ってそんなものなのかもしれない。その後の吉乃がどんな人生を歩んでいくのか、ちょっと想像してみた。自立した大人の女性に成長していくように思う。深海のような本屋が近所にあったなら、ぜひ常連になってもみたいと思わせてくれる一冊である・・・








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2025年10月03日

【星を編む】凪良 ゆう 読書日記1611

星を編む - 凪良ゆう
星を編む - 凪良ゆう
『汝、星のごとく』(読書日記1532)の続編。

最初の「春に翔ぶ」では、主人公の高校教師北原の一人称で物語が綴られる。父が事業に失敗して経済的な困窮に陥り、奨学金を利用して公立高校を卒業して大学へ進学する。さらに大学院へ進学して研究者の道に進むが、追い打ちをかけるように父親が倒れて大学院を中退して高校教師になる。人の良い父親は元従業員に対してわずかばかりの支援をしているが、自分にはしてくれない。そんな鬱屈した思いを抱いている。父の人の良さはわかるが、どうして他人だけを助けるのだろうか。

高校教師になっても周囲からは浮いた存在だった北原は、ある夜、同じ高校のやはり周囲から孤立している生徒明日見奈々が警官に職務質問をされているところに出くわす。奈々はスノーボーダーと付き合っている。その日から孤立した者同士教員室でしばしば昼食をともにする。奈々は明日見総合病院の一人娘。しかし、厳しく自分を病院の後継者の婿取りとしか見ていない父親に反発している。親しくなるうちにやがて菜々が妊娠していることが発覚する・・・

「星を編む」は2人の編集者が主人公となる。柊光社の植木渋柿と薫風堂の二階堂絵里である。2人は会社は違えども気が合う同業者として飲みに行ったりする仲である。絵里は若くして早逝した漫画家青埜櫂の最初で最後の小説原稿を出版したいと狙っている。一方、植木は未完に終わった青埜櫂と久住尚人の漫画の復刊と未完部分の完成出版を狙っている。2人の漫画は人気絶頂期に久住尚人の未成年男性との交友が暴露されて叩かれ、業界から抹殺されていた。未完部分のプロットは生前の櫂から聞いており、2人と親しかった漫画家にその完成を頼んでいる。

2人はそれぞれの会社で編集長の地位にあり、一定の力がある。ともに若い頃、2人の有能な漫画家を助けられなかった事に悔いが残っている。編集長とは言ってもそれぞれ仕事や家庭の苦悩を抱えている。特に絵里は女性編集長としての活躍の一方で、家庭では夫に子作りを提案されて先延ばしにしている。女性が男性と同様に社会で活躍していく難しさが描かれる。苦難の生活の中で、互いに助け合って仕事に邁進する。2人は互いに同志である。

最後の「波を渡る」は少し時間を下る。前作の登場人物の1人北原暁海は38歳になっている。夫の北原草介は月に一度菜々に会いに行く。島の人たちは月に一度妻公認の愛人に会いに行く北原について噂話をする。しかし、ここまで読んでくると関係性がわかっているのでなんとも思わない。「春に翔ぶ」は前作の前日譚であり、この「波を渡る」は後日譚に当たる。暁海も父の愛人で今は後妻となった瞳子と仲良く交流している。

草介の娘結もいつの間にか大人になり、オーストラリア人の夫と国際結婚をする。草介と暁海の互助会結婚にも一定の結末が待っている。本作が加わる事によって前作の世界が大きく広がる。草介と暁海と奈々と櫂の物語が静かなエンディングに到達する。前作では櫂と暁海の18歳から25歳までが描かれ、本作では暁海は58歳になっている。同年代だからだろうか、若かりし日々を静かに振り返る心境がよく理解できる。

振り返れば喜びがあり後悔がある。しかし、それらが一体となっていつしか遠い思い出になっている。もっと違う人生はあったのだろうかと思うも、それは考えても仕方のないこと。それらの思いを静かに受け入れられる自分がいる。いつしかそんな思いに囚われている。なかなか面白く読ませてもらった続編である・・・







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