2017年04月25日

【侍】遠藤周作



 最近映画が公開されて話題になった遠藤周作の『沈黙』を読んだのは、結構前のことである。以来、他のも読んでみようと思いつつ月日を重ねて来たが、思い立って2冊目に手を出すことにした。それがこの本。

 『沈黙』もそうであったが、この本も江戸時代初期が舞台。そしてベースにあるのが「キリスト教」というのも同じ。時に徳川家康が幕府を開き、豊臣家はまだ残っていて、すなわち時は大坂夏の陣の前である。東北地方のある藩の下級武士である侍は、ある時上役から呼び出される。そして牢から出された宣教師らとともにノベスパニヤに向かい、交易を開始する交渉をしてこいと命じられる。召出衆という身分の低い立場の自分がなぜと訝しがりながらも、かつて領地替えとなった所領を取り戻すチャンスでもあると侍はこれを受ける。
ノベスパニヤと言われてもわからなかったが、それは現在のメキシコらしい。

 一方、使節一行の案内役となるのは宣教師のベラスコ。ベラスコは日本語を話す通辞でもあるが、時に幕府によるキリシタン禁制の動きが出ており、こうした日本における禁制の動きは、対立するペテロ会の失策であり、自分に任されれば時の権力者と協調し布教ができると考えている。この交易を実現させ、ローマ教会の承認を得て日本における布教を主導しようと目論んでいる。

 こうして、船が造られ、侍を含む4人の召出衆が使者となる。使者はそれぞれ4人の供の同行を許され、他にも同船する商人らとともに船に乗り込む。そして出港の日を迎える。実は、侍は現在の領地で良いと思っている。元の知行を望んでいるのは伯父であり、その手前調子を合わせているのである。寡黙な侍は、そんな心の内を叔父に話せない。そして内心では、故郷を遠く離れることになるこの役目を嫌がっている。

 途中まで侍の本名は伏せられたままで、タイトルにある通り「侍」と称されたまま進んでいく。しかし、その名は長谷倉六右衛門と明かされる。実は、これは伊達政宗によって派遣された慶長遣欧使節団の支倉常長(支倉六右衛門)をモデルとしているとのこと。史実はそうだが、実は細部のところはわかっておらず、それを著者が小説という形で補って描いたものの様である。

 それはともかくとして、一行は暴風雨にさらされたりして、苦難の航海を続けていく。使者の1人である松木は、自らの役目を「捨石」と見なしている。殿の書状を持参する使節としては、自分たちの身分が低すぎるのがその理由。しかし、侍はその意見を否定し、上司の思いやりのある言葉をその理由とする。このあたり、冷静に分析する松下と侍たち「信じる」派との心理描写が面白い。

 侍たちからすれば、お役目として受けた以上、それに従わないといけない。何かあれば腹を切らなければならない時代である。そして、キリスト教との関わり。侍も初めはキリスト教を理解できないでいる。その心情はよくわかる。しかし、やがてお役目のためにキリシタンに改宗することを迫られる。断ればお役目を果たせず、さりとて心から信奉できないキリスト教に改宗する意味はあるのか、故郷にある家族を裏切ることになるのか、その葛藤がよく伝わってくる。

 そして一行は長い苦難の旅の果てに、ローマ法王との謁見に臨む。お役目と自らの心中との葛藤。苦難以外の何物でもない旅。そして予想もしなかった国内の変化。ラストに待つ理不尽な結末に、なんとも言えない気分になる。果たして、自分が主人公の立場だったらどう行動するであろう。そして実在の支倉常長の旅は実際はどんなだったのであろうと、思いは馳せる。

 それにしても、この宗教というものは、実に重いと思う。神などいないと合理的に考える考え方も理解できるが、キリスト教がなぜ世界中に蔓延していったのかということも理解できる。エンターテイメントとしても十分楽しめるが、「宗教とは何なのか」という疑問に対し、ヒントを与えてくれる要素もある。三浦綾子の『氷点』は、キリスト教の原罪という概念を良く理解させてくれたが、この本もキリスト教に帰依する理由を良く理解させてくれる。ただの小説として捉えるだけでは不十分だろう。

 遠藤周作の著書については、まだまだ興味深いものがある。慌てずゆっくりと一つ一つ読んでいきたいと思わされる作家である・・・



posted by HH at 11:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説/時代劇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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