2016年02月22日

【新しい道徳】北野武



第1章 道徳はツッコみ放題
第2章 ウサギはカメの相手なんかしない
第3章 原始人に道徳の心はあったか
第4章 道徳は自分で作る
第5章 人類は道徳的に堕落したのか?

著者は今や「ツービート」と言っても通じないかもしれないと思われるビートたけし。
いや、この本では「北野武」となっている。
漫才からスタートし、今や俳優・監督としても一流の地位を築いたたけしは、著作にも進出しているが、以前読んだ『間抜けの構造』では、「ビートたけし」で出版していたのに、この本は「北野武」となっている。
その違いがちょっと気になる。

「新しい道徳」と言っても、何か従来と違う道徳を考えているわけではない。
「なんだかおかしいなあと思うから書いただけ」と本人が語る通り、最近の道徳の教科書を見て、違和感を感じたという内容が綴られている。
のっけから「道徳がどうのこうのという人間は信用しちゃいけない」と手厳しい。

読み進めば、たけしの毒舌が目に飛び込んでくる。
「自分を見つめて」という表現に、「小学校1年が自分を見つめるわけがない」。
「一番うれしかったことを書きなさい」という表現に、「小学校1年に一番うれしかったこともない、そういうのは歳をとって昔をふり返って思い出すもの」。
「いいことをしたら気持ちいい」という表現に、「年寄りに席を譲るのは人としてのマナーの問題、気持ちいいではない」等々辛辣である。
もっとも、そんなに突っ込むほどのことか、と個人的には疑問に思う。

しかし、「年寄りを大切にしなさいと言いながら、なぜかを教えていない」という指摘は、確かにその通りだと思う。
今の日本があるのは、年配の人たちが頑張ってきたおかげということは、やはりきちんと教えるべきだろう。
だが、「なぜ本を読んでいた二宮金次郎は銅像になって、スマホを片手に歩いている女子高生は目の敵にするのか」という部分は、「同じじゃないでしょ」と突っ込みたくなる。

「大人が心にもないことを言っている限り子供には伝わらない」
「教科書の内容をそのまま子供に伝えるのが教師の仕事だっていうなら、パソコンでもロボットでもできる」
「なんで道徳を守らなきゃいけないか、そんなことも考えずに道徳を教えることこそ不道徳の極み」
そんな指摘は、確かに核心をついていると思う。

「挨拶は人間関係を円滑にするための1つの技術」
「自分が傷つきたくないなら、他の人を傷つけるのはやめよう」
「守ることができるかどうかわからない道徳を抱えて生きるよりも、自分なりに筋の通った道徳を作ってそれをきっちり守った方がいい」
「道徳を他人まかせにしちゃいけない」
自分自身の体験に基づいたエピソードも交えたたけしの言葉には、思わず「そうだなぁ」と頷かされる。

「女遊びなんてするに決まってんじゃねえか」というたけしらしいセリフもあり、楽しみながら、考えさせながらの内容である。
難を言えば、最近の道徳の教科書を読んでいないので、いまいち伝わりにくい部分があることだろうか。
改めて、道徳の教科書を読んでみたくなった一冊である・・・

posted by HH at 21:07| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月14日

【声優魂】大塚明夫



第1章 「声優になりたい」奴はバカである
第2章 「演じ続ける」しか私に生きる道はなかった
第3章 「声づくり」なんぞに励むボンクラどもへ
第4章 「惚れられる役者」だけが知っている世界
第5章 「ゴール」よりも先に君が知るべきもの

著者は声優。
最近は、吹き替えで洋画を観る機会も少なく、アニメもまたしかりだし、ましてやゲームなどやらないし、というわけで著者の声にほとんど記憶にないのだが、唯一『攻殻機動隊』のバトーの声だけはなんとなくわかるという程度の認識であった。

そんな著者は、冒頭でいきなり「声優になるのだけはやめておけ」と語る。
「声優になるためには、声優学校に通って」と何となく素人でも思うが、「声優ほどハイリスク・ローリターンな生き方も稀」と著者は言い切ってしまう。
されど、それも説明を聞けばなるほどと思う。

一つには、「声優の数」と「仕事の数」のアンバランスだという。
昔は50の椅子を50人で争っていたのが、今は300の椅子を1万人以上で争っている状況だという。
声優は自分から仕事を作れないのが特徴で、仕事は「待っていることしかできない」というが、それは確かにそうだと思う。
作品がなければ、出番もないわけである。

そんな著者はなぜ声優になったのかと言えば、もともと父親が役者であり、大学中退後様々な仕事を経験したあと文芸座の門を叩いたのだという。
つまり役者としてスタートしたわけである。
そしてラジオドラマ出演を機に、声優の世界へと入って行ったようである。
人との出会い、仕事の流れから声優の世界に入り、役との出会いがあって成功したというのが経歴のようで、だから「こうしたら成功できる」という方程式などないのだろう。
著者なりの正直な気持ちだろうと思う。

「良い声だったら成功できるのでは」と思わなくもないが、著者はそれも否定する。
声優の仕事は「役づくり」であって、「声づくり」ではないと語る。
「人が本当に『良い声だ』と感動するのは、芝居自体がその人の胸に刺さった時」だと言うのは、その通りなのだろう。
「台本に書いてある通りに言っていても、人の心にはひっかからない」
「声優だから声が良くないとダメ」という事でないという事は、素人でも納得できる。

「声優になりたいから声優学校へ」というのは、間違いだと著者は断言する。
それは、「それが一番安全で確実な道だから」ということだろうが、「『安全策』として学校を選ぶ人はその時点である種のステレオタイプを選んでいる」という指摘はもっともだ。
しかし、世の中にはその安全策を求める考え方が、声優の世界以外にも一般的だ。
「ガンダムを一機作るより、量産型ザクをたくさん揃える方が安上がりだし手間もいらない。しかし、ザクで世の中は変わらない」という言葉は、実に深いと思う。

単に声優の世界のあれこれだけではなく、世の中一般に広く通用する考え方が溢れていると思う。
「作品作りにおいて『こうしたい』という意志を明確に持ち、それをはっきり役者にも打ち出してくれるデイレクターに会う機会が減ってきた」という言葉は、今のサラリーマン全体に当てはまることではないかと思う。

声優になることは勧めないという著者の言葉は本心だろうと思う。
だから飛び込むには覚悟が必要だということではないだろう。
声優になりたいと思う人は、まず耳を傾けるべき内容ではないだろうか。
子供が将来「声優になりたい」と言ってきたら、読ませたいと思う本である。
それだけに留まらず、書かれていることは世間一般にもヒントになりそうなこともある。
やはり一つの道を極めた人の言葉には重みがある、と改めて思う。

声優になるならないではなく、得るもののある一冊である・・・

posted by HH at 20:32| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月17日

【僕がコントや演劇のために考えていること】小林賢太郎



著者のことはまったく知らなかったが、劇作家であり、パフォーミングアーティストであり、コントグループ「ラーメンズ」、演劇プロジェクト「K.K.P」、ソロパフォーマンス「Potsunen」など、劇場を中心に活躍している方らしい。
そんな著者が、タイトルにある通り、日頃の考えを語った一冊である。

そもそも著者のことを知らないのも無理からぬこと。
著者はあまりテレビに出演せず、もっぱら劇場を活動拠点としているらしい。
テレビに出演していたとしても、あまりテレビなど見ないから芸能人の名前もあまり知らない身としては、なおさらである。

やはりこの手の人の考え方は、どこか人と変わっている。
自らを「変な人」と言いながら、「普通の人」だという。
「特別なもの」を生み出そうとするとき、それがどんなふうに特別なのかを「普通」という視点から見極める。
実はこれは今の仕事でも意識していること。
私の場合は、「普通」を「顧客」と置き換えている。

文章のタイトルだけ見ていても、頷けることが続く。
・自分で決める力を養う
・「オリジナルを生み出す」ということから逃げない
・我慢ではなく努力、後悔ではなく反省
・うちはうち、よそはよそ
・できない理由を並べずに、できる方法を考える
・人のせいにしない

「人のせいにしない」では、「もっと一流の人と仕事がしたいと思ったら、まずは自分が一流になることだと考え、やる気を出していればいい」と語っているが、大いに共感させられる。
さらに続く。

・やっちゃいけないことはない、ただしデタラメは通用しない
・返事や挨拶には機能がある
・やりたくない仕事は、やるべき仕事に矯正してしまう
・絶対に売れない方法は「辞める」ということ

舞台や演劇に関することはそうでもなかったが、己の仕事に相通じる考え方などは、やっぱり不偏の真理は異なる仕事であっても変わらないものだと実感する。
著者のことも著者の仕事のことも何も知らないが、書かれていることは、真理だと思う。
なんでこの本を読もうと思ったのか、既に忘れてしまっていたが、読み終えて無駄には思わなかった。
著者も「1行でも自分のためになると思ったら、その本は買いだ」と語っている。
いずれ著者のパフォーマンスも観てみたいと思う。

食わず嫌いはよくない。
少しでもアンテナに引っ掛かった本は、まずは読んでみるべきだと、改めて思わされる一冊である・・・
    
   
posted by HH at 00:02| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月23日

【ほぉ・・・ここがちきゅうのほいくえんか】てぃ先生



著者は現役の男性保育士。
要は「ようちえんの先生」であるが、男女雇用機会均等法の時代だし、かつては「女の職場」であった保育士に男がなっても不思議ではない。
この本は、そんな“イマドキ”の男性保育士が、ツイッターでつぶやいていた日常の出来事が「面白い」と評判になって、書籍化されたもののようである。

内容は、ツイッターでつぶやいていた園児たちの微笑ましい行動なのであるが、やっぱり面白い。
タイトルはある園児が病気明けで久しぶりに登園して来た時に、つぶやいた一言である。
久しぶりの照れ隠しなのか、何かのテレビの影響なのだろう。
大人からは絶対に出てこない発言であり、そこは園児らしい微笑ましい発言である。

若い先生はやはり園児たちの人気も高いようで、特に「独身」ということが、たぶん周りからもいろいろと言われているのだろう、子供たちからの発言もそれにからむものが多い。
女の子はやはりませていて、「先生と結婚する」といった類のものが多い。
「カノジョがいない」というのも、園児たちがその意味をわかっているかどうかはともかく、よくネタにされているようである。

個人的にどんな仕事であれ、「本を書ける」くらいのプロにならないとダメだと考えているが、保育士であっても例外ではない。
保育士は少子化の時代とはいえ、数多いるだろうが、ツィッターでこのように人気が出て本になってしまうというのも、この人が初めてなわけで、そこにはやはりそれだけのものがあると言える。

もともと子供好きなようであるが、周りは女性ばかりだろうし、抵抗はなかったんだろうかと、オジさん世代は思ってしまう。
我が家の子供たちも幼稚園児時代は本当に可愛かった。
自分の子供たちは成長してしまうが(成長しないと困るのだが)、幼稚園児は毎年新しい子が入ってくる。
そういう意味では、子供好きならやりがいもあるのだろう。

「ツイッターでつぶやいただけ」と言いながら、毎日の生活の中で、園児たちのユーモラスな様子を観察していた賜物であろうし、それだけ仕事を一生懸命やっているということである。
そういう部分は見習うところがある。
同じことをすべしとは思わないが、熱心に仕事に取り組んでいれば、どんな意味でも「気付き」はあるはずで、そうしたものを積み上げていけば、立派なプロになれると思う。

そんな部分を見習いたいと思わせられる一冊である。
     
   
posted by HH at 20:49| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月14日

【「自分」の壁】養老孟司



第1章 「自分」は矢印に過ぎない
第2章 本当の自分は最後に残る
第3章 私の体は私だけのものではない
第4章 エネルギー問題は自分自身の問題
第5章 日本のシステムは生きている
第6章 絆には良し悪しがある
第7章 政治は現実を動かさない
第8章 「自分以外」の存在を意識する
第9章 あふれる情報に左右されないために
第10章 自信は「自分」で育てるもの

著者の本は以前、『バカの壁』を読んだ事がある。
この本のタイトルもそれを意識している事は間違いないと思う。
「壁」とはなっているが、この本は著者が最近考えていることをまとめたもので、その主題が「自分」ということである。

著者は自分に確固たるものがないと考えているようで、自分とは「地図の中の矢印のようなもの」と言う。
もともと日本人は個人主義の社会ではないので、今も「自分」などとは必要ないのではないかと述べるが、このあたりの感覚は独特だ。
自分から離れた瞬間、「ヒイキがなくなり、指でも腕でも気持ちの悪いものになる」という解説は面白い。

著者は私と同様、ひねくれ者の素養があると思う。
オリジナリティとは「私にしかできないこと」であるが、『学問でオリジナリティを発揮せよということは、私にしか考えられないで、他の人には考えられないことばかり考えろということは、「病室に入れ」というのと同じではないか』と主張したりする。
そんな主張はまさにひねくれ者の同じ匂いがしてならない。

そんな語り口で世の中の問題を語る。
高齢化の問題も、「高齢者が急増するここ30年ほどの問題ではないか」と述べる。
このあたりは私も常日頃心に抱いている。
年寄りもいつまでも年寄りではない。
いずれこの世を去っていく。
細かい数字を挙げての説明はできないが、感覚的にはそう言えると思う。

衆議院との違いが見られない参議院は、(選挙に左右されないため)長期的テーマを国家レベルで議論する場とせよという主張は、なるほど筋が通っている。
日本では当たり前の「世間」については、外国人に対し、「差別ではなく会員制クラブのメンバー」と説明しているというが、この考え方も面白い。
「選挙はおまじない」という考え方も、実にひねくれている。
「紙に名前を書いて箱にいれるだけで何か変わるのか〜それはおまじいなと同じ」
こうした主張が話題を変えつつ、続いていく。

余命いくばくもないとわかっていて、本来はもう何もしないのが本人にとっていいことかもしれないのに、「無駄でもいいからできるだけのことをしてほしい」という身内の心情。
「何よりも自己が大事」とする西洋の考え方と、「お前はお前だけのものではない」という日本の伝統的な考え方の対立。
欧米に対して日本の「個」の弱さは、むしろ仏教的な考え方からきているもので、仏教のお寺が残っている日本他モンゴル、チベット、タイ、スリランカ等々の国々には自然が残っているという共通点があるという主張は、目覚め感がある。

最後の「あふれる情報に左右されないために」は我が意を得たりの感がある。
マスコミの偏向報道は当然として、世の中には意外とこの手の話があふれている。
風邪をひいた時に秘書がある薬を勧めてきた。
その秘書の方はその薬が効いたのだというが、著者の回答は「その薬が効いたのかその前に食べた焼肉が効いたのかはわからない」というもの。
ひねくれ者にはひねくれ者に通じる理屈がある。

あまり「壁」がどうのと意識することはない。
他の人の意見を聞くことは、いろいろな事を考える上でのヒントになる。
そんな意識で手に取りたい一冊である・・・
   
     
    
posted by HH at 18:26| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月22日

【全日本プロレス超人伝説】門馬忠雄



第1章 ジャイアント馬場
第2章 ジャンボ鶴田
第3章 ザ・デストロイヤー
第4章 アブドーラ・ザ・ブッチャー
第5章 ミル・マスカラス
第6章 大仁田厚
第7章 ザ・ファンクス
第8章 スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディ
第9章 ザ・グレート・カブキ
第10章 三沢光晴
第11章 小橋建太
第12章 天龍源一郎
第13章 ジョー樋口

著者は、元東京スポーツのプロレス担当記者であり、その後プロレス評論家として、知る人ぞ知る人物。
最近は離れてしまっているが、元々プロレス好きであり、1980年代から2000年頃までは夢中になってプロレスを観ていた自分が、気がついたら手に取っていた一冊。

最近のレスラーはあまりよく知らないが、各章で採り上げられているレスラー&レフリーはみな良く知っている。
今だからこそ、著者も語れる知られざるエピソードの類を期待してみたのであるが、結果的には取り立てて目新しい事もなく、そんなに期待したほどでもなかったというところが正直なところであった。

それも無理からぬところがある。
と言うのも、最初のジャイアント馬場こそ30ページほど割かれているが、あとは一人10ページ程度の記述である。
採りあげられるのは、みんな日本で長く活躍したレスラーであり、まともに書いたらもっと分厚くなるだろう。
勢い、「ダイジェスト版」といった感じであり、深く突っ込んだものはない。

ジャンボ鶴田の章では、「新日本プロレスへの誘いを拒否」とあった。
こんなエピソードなら、詳しく知りたいと食指が動いたが、「新間寿営業本部長から、強引に新日本入りの勧誘があった。〜が、ブレることなく拒否」と2行で終わってしまった。
詳しい経緯を知らなかっただけかもしれないが、この程度のダイジェスト版ではファンを喜ばすのは無理かもしれない。

著者もやはり名の売れた記者/評論家であるから、レスラーとの個人的な付き合いも多かったようである。
ジャイアント馬場とは、死の2ヶ月ほど前に雑談していたというし、「あさってハワイに行くよ」と言葉をもらったのが最後と言うし、そうしたエピソードは確かに面白い。
だから書こうと思えば、各レスラーについてもっとあったと思うのである。
それが紙数の関係なのか、意欲の問題なのか、薄い内容となってしまっているのは残念である。

今のファンには、昔のレスラーの話をしてもこの程度だと興味を持ってくれないだろうし、昔のファンにはこの程度では物足りない。
どうにも中途半端感が拭えない一冊である・・・

   
posted by HH at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月26日

【間抜けの構造】ビートたけし



第1章 間抜けなやつら
第2章 “間”を制するもの、笑いを制す−漫才の“間”
第3章 お辞儀のきれいな人に落語の下手な人はいない−落語の“間”
第4章 司会者の“間”を盗め−テレビの“間”
第5章 いかに相手の“間”を外すか−スポーツ・芸術の“間”
第6章 映画は“間”の芸術である−映画の“間”
第7章 “間”の功罪−日本人の“間”
第8章 死んで永遠の“間”を生きる−人生の“間”

ご存知ビートたけしの著書。
タイトルに興味を惹かれて、手に取った一冊。
漫才師として、そして映画監督として大成功している著者だけに、そこに独特の“間”理論のようなものがあるのではないか、とは容易に想像できる。
そんな“間”の一端を知りたかったと言える。

改めて考えてみると、“間”というのは難しい。
およそ人と人の関係においては、常に“間”というものがある。
それを言葉で表せというのも難しいと感じるところである。
よく「間抜け」という言葉が使われる。
冒頭出てくるのは、そんな間抜けの例。

一般的な間抜けの話より、たけしの弟子の話が面白い。
思わず噴き出してしまったから、電車の中で読む時は要注意だ。
漫才、落語、テレビとお笑い関係にはやっぱり“間”が重要。
されど相変わらず言葉で説明されてもピンとこない。

最後まで読んでも結局、“間”の事はよくわからない。
どういう経緯で、こういうタイトルの本を執筆する事になったのかはわからないが、肝心の“間”の話はどうもよくわからなかった。

ただし、ではこの本がつまらないかと言えばそうではない。
冒頭の弟子の話、かつてのツービート時代の話、それからたけしを取り巻く人たちとのエピソードなどは興味深い。
特に映画関係の話は、一段興味深く読んだ。
同じお笑い系のタレントの松本人志が映画を作っているが、たけしの映画とは比べるべくもなくつまらない。
そんな理由が垣間見える。

“間”などというタイトルにとらわれず、ただのエッセーとでも認識して読めば面白い一冊だと言えるだろう・・・
    
   
posted by HH at 22:22| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする